発達と教育2


 「おたく」という言葉を耳にする度に、おたくもずいぶんと安っぽいものになったなと思います。

 ある人々の層が、おたくと呼ばれて世間一般に認知され始めたのは、宮崎勤氏の幼女連続殺人事件の頃からだったと思います。当時「おたく」といえば、部屋の中は怪しげな収集物であふかえっていて、人と話すのは苦手、というよりはむしろほとんど人と話さない、イマジネーションの世界にだけ生きているかのような存在に見えました。

 ところが現在では、ある程度特定の事柄について知識を持っていればすぐにでも「○○おたく」という「称号」を与えられ、その人はおたくとして成立してしまいます。何かに詳しい人イコールおたくという単純な図式ができあがり、以前のような「おたくというのは別世界の住人」というイメージは次第に薄くなってしましました。

 現在「おたく」と呼ばれている人々の大半は、当初の意味では到底おたくと呼べない人たちではないでしょうか。「鉄道マニア」「警察マニア」「ラジオマニア」という言葉が変わって、「アニメおたく」「テレビゲームおたく」となったに過ぎないと思います。(「マニア」と「おたく」はどちらも、何かに強い興味を持ち通常以上の知識を有する人たちを指す言葉ですが、あえて私なりにその違いを定義しますと、マニアというのは「どれだけ現実に、本物に切迫できるか」を追究する分野に適用される言葉で、おたくというのは「どれだけ新たな世界に没頭できるか」を追究する分野に適用される言葉といえます。)

 近頃、おたくを社会の中で肯定的に捉えようとする主張がみられますが、私はこれに賛成する気になれません。先に述べたとおり、現在いわれている「おたく」は実際にはそれほど特殊な存在ではなく、今の社会に特徴的なものではありません。私は、それを改めて肯定する必要性はないと考えます。現在の意味での「おたく」は、既に社会的存在なのです。

 また、仮に以前の意味での「おたく」を指しているのだとしても、おたくは他の誰のためでもなく、自分のためにそのおたくらしさを持っているのですから、「社会の中のおたく」を積極的に肯定したところで、社会にもおたく自身にもメリットはないのではないでしょうか。


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