情報と社会


 「コンピュータが社会を変える」というようなことがよく言われている。コンピュータが人々の生活に浸透してきているのは言うまでもないことだし、コンピュータなしの現代社会は考えられない。

 しかしそれは、例えば冷蔵庫や洗濯機を制御するためにマイクロコンピュータが内蔵されるとか、鉄道の切符の発券にオンラインシステムが利用されるとか、OA・FA化が進んだりとか、基本的にはこれまで行われてきた社会の営みを、効率化するため、より便利にするためにコンピュータが用いられるというレベルの話がほとんどである。

 そこではコンピュータは、これまでの道具の代替物でしかない。確かに、新しい仕事のやり方や、新しい表現方法は生まれたかもしれないが、コンピュータ自体が社会の中に何か新しい枠組みを作り出したというわけではない。

 しかし、コンピュータが生み出した新たな概念が一つある。コンピュータゲームである。

 コンピュータゲームの起源には諸説あるが、最初のものはテニスかピンポンのようなゲームだったと一般には言われている。テニスやピンポンといっても、画面に表示される光の点を追ってコントローラを動かすだけである。画面に流れる点を追うだけの行為に、もはやこれまでのテニスやピンポンの形は見いだせない。

 ここでのコンピュータは、球技練習用のピッチングマシーンを代替する物ではない。全く新しい娯楽を提供する道具なのである。

 さて、人々の生活にコンピュータがとけ込んでいるといっても、それを利用している現代人には依然として「機械」とか「自動的」とか、何らかの特別な意識がある。

 マイコンが食品の状態を感知し、タイマーをセットしなくても自動的に加熱をストップする新しい電子レンジに驚嘆する人がいる。みどりの窓口で全国の指定席の予約状況がリアルタイムで出てくることに圧倒される人が未だにいる。

 コンピュータが代替物であるため、これまでとは比べものにならない利便性や効率に驚くのだ。

 しかし、コンピュータゲームは代替物ではないので、目新しさを除けば、これまでの娯楽と比べてより面白いか、などという議論は無意味である。だからコンピュータゲーム初期のマニア層とは違い、現代の子供たちにとってゲームは特別な遊びではない。

 そして重要なのは、現代の子供たちにとってはコンピュータも特別なものではないということだ。

 現在、工業生産主体の社会から情報の流通と消費が主体の社会へ移行しようとしていて、その中で重要な役割を果たすのがコンピュータなのだ、と言われる。

 特に注目されているのがコンピュータネットワークである。ネットワークはこれまでのところ、既存の通信手段を代替するものとして使われてきた。メールやネットニュースは、手紙や電話、掲示板の代わりとして発生したものである。

 現在では、コンピュータネットワークは新たな社会そのものであるという見方も出てきている。そこではネットワーク社会とは、個人間の物理的距離、あるいは社会的な地位差、そういったものが取り払われた社会だと言われている。これは、既存の通信手段の代替物というレベルからコンピュータが脱しかけていることといえる。

 だが、前述の電子レンジやみどりの窓口と同じように、いやそれ以上に、人々は、コンピュータネットワークに対して特別性を感じたり、利便や効率をことさら強調したりする。これでは、ネットワーク社会は有効に機能しないのではないか。リアル社会とネットワーク社会の間を自然に行き来できなければ、ネットワーク社会はそれだけで孤立してしまうのではないか。

 そこで登場するのが、コンピュータゲーム以降の世代である。彼ら、彼女らにとって、コンピュータはそれ以上のものでもそれ以下のものでもない。電子メールでコミュニケートすることは利便や効率を求めたものではない。第一、特別の必要に迫られて利用するのではない。コミュニケートすること自体を楽しむ、そのひとつの形でしかない。

 コンピュータをツールに過ぎないものとして使い、リアル社会とネットワーク社会を意識せずに飛び移る。そんなコンピュータゲーム世代が大人になるとき、ようやく社会は変わると言えるのではないか。

 コンピュータが代替物として使われている限り、コンピュータが社会の構造自体を動かすことはない。代替物ではなく、コンピュータを純粋に新しい道具として扱うことのできるのは、それを純粋に新しいひとつの遊びとしてとらえてきた世代なのだ。

参考文献
1.桝山 寛(テレビゲーム・ミュージアム)「電視遊戯時代」,1996
(http://trans-japan.com/vp/bg96/denyu/)
2.静岡大学情報学部「MOVE'98」,1997


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