梅棹忠夫著「知的生産の技術」と、立花隆著「『知』のソフトウェア」に書かれていることから、この二人の意見が分かれる原因・理由について考えてみる。
この二人は、知的生産に役立てるため、という目的は同じものの、情報管理の方法はいろいろな点で異なっている。まず、基本となる考え方が異なる。梅棹は「様々な情報を蓄積して将来いつでも引き出せるようにしておく」と考えているが、立花は「必要に応じて必要な情報だけを集める」と考えている。
これは、何より二人の職業の違いから生まれているところが大きい。梅棹は研究者であるのに対し、立花はプロの物書きである。研究というものは、様々な事象を集めその中に共通点がないかを探求するということが大きな部分を占めている場合が多い。一方、立花のような物書きは、特定の対象を研究することよりも、時事の様々な話題を幅広く取り扱わなければならない。このことが二人の考え方に違いを生み、具体的な情報管理の方法に影響をしている。
梅棹の情報管理のすべては、「カードとファイル」である。あらゆる情報をカードに書き込み、やむなくカードの大きさに収まらないものだけをオープンファイルにとじ込み、必要になったらそれを取り出し、そして並び替えて知的生産につなげるのだ。梅棹の考えでは、その過程も知的生産に含められる。
この方法は、情報の蓄積を操作することにより新しい発見がもたらされるという考え方に基づいたもので、いかにも研究者らしい発想である。「カード法は、歴史を現在化する技術であり、時間を物質化する方法である。」と梅棹は書いているが、まさにその通りに歴史と時間を知的生産の材料としている。
それに対し立花は、著作の中で「あんなことをつづけていたら、私がこれまでになしたアウトプットの十分の一もできなかっただろう。」と梅棹の京大式カード法を名指しで批判している。
立花は無意識の「閃き」や「思いつき」の潜在力を尊重している。そういった無意識下の発想は、情報を人間の外部に蓄積するカードでは起こりにくいことだ。もちろんカードを眺めていて新たな発想を得ることも考えられるが、立花によれば、それは頭の中でも行われていることで、それをカード化することは能率を落とすだけだ、カード作成の時間があるなら、その分たくさんの情報を取り入れたほうがよいものが書ける、ということである。
二人の情報管理は、情報の出力のための側面だけでなく、入力の側面でも大きく異なっている。これらの本が書かれた当時は、まとまった情報の収拾源は紙媒体、すなわち本、新聞、雑誌等である。読書の仕方ひとつとっても、梅棹は読んだ後に何らかの記録をとらなければ知的生産のためには効果が薄いとしているが、立花は本当に自分が必要だと思ったことは頭の中にはいっているはずだとしている。
そして、実際の読み方も、梅棹は「一冊の本は最後まで読む」が基本的なものであるのに対し、立花は「斜め読み」「拾い読み」を奨励している。梅棹は丁寧に著者の述べようとしていることをくみ取ろうとしているが、立花は自分に必要な情報が自分に必要な形で存在しない本ならば放棄してしまうという豪快さだ。
この違いも、比較的研究のために時間の取れる梅棹と、次から次へと原稿を書かなければならない立花との、職業の違いから生まれていると言えよう。どちらが良いとは言えない。それぞれの行おうとしている仕事により異なることだ。
ただし、現在の情報流通量の多さを考えると、立花のやり方のほうが現実的だとは考えられる。自分に必要な全ての情報を逐一カード化している余裕が、必ずしも現代の一般人にあるとは言えない。つまり、立花の情報管理法はより現代風であるということだが、このことは二人の職業の違いだけでなく、時代の違いも原因となっているのではないだろうか。
梅棹の時代には、情報を手元に置いておくにしても、コピー機もファクシミリもない。梅棹にとってカードを作るということは、情報管理そして知的生産のために選んだ一手段という以前に、情報を手元に置くための唯一の効率的な方法であったとも言える。梅棹はカードについて「知識を分類して貯蔵するのが目的ではない」と述べているが、貯蔵するのが目的ではないにしろ、情報を利用可能な状態で保存するための必然的な手段がカードだったのである。
立花はコピーを積極的に利用している。必要と思われる情報は全て徹底的にコピーを取っているが、コピーの用紙は保存に適していないし、大量のコピーを管理しておくことは難しいだろうから、おそらくは必要なくなった時点で処分してしまうのだろう。それを手元に保存しておかなくても、必要となればまたコピーを取りに行けばいいだけだ。コピー機が普及していなければこんなことはできない。
コピーのことに触れたついでに、機械の活用という点では、ワープロに関して二人のとらえ方の違いも考えておこう。もっとも、梅棹の時代にはワープロは存在しなかったので、タイプライターに対するとらえ方であるが。
梅棹はタイプライターを歓迎し、立花はワープロを歓迎している。二人の共通点のようにも見えるが、それぞれその機械のどこを長所と見るかは異なっている。梅棹がタイプライターをすすめる理由は基本的に、きれいな字が書けるからである。「筆跡が個性を持つ」ということが梅棹には気に入らないようで、そういう考えを「ばかげた迷信」と批判している。
立花の主張するワープロの長所は、原稿を書きながら刷り上がった実際の活字に近いものが読めるという点だ。原稿用紙の上では、せいぜい数段落しか一度に目を通すことはできない。広く原稿を見渡せ、しかも活字で読めるワープロを利用することにより、ゲラ刷りを見てから手直しするという手間が大幅に少なくなる。
梅棹がタイプライターを使うのは読み手のことを考えたものだ。立花は原稿を書く能率のためにワープロを使おうとしている。一般の人はワープロの目的というとまず「きれいな文字で書ける」を挙げるだろうが、それに対して立花の使い方は、文章書きのプロらしい観点からのものである。
この二人の情報管理・処理の方法の違いは、時代の違いという要因もあるが、主な原因・理由は二人の仕事の違いである。仕事の違いから、扱う情報の違いや、執筆する原稿の違いや、情報というものに対する考え方の違いが生まれ、最終的にそれが情報管理法の違いとなって表れているのである。