(初出:2000年02月17日、追記:2005年7月17日)
前項からの続き本項参考ページ
http://www.videogamespot.com/features/universal/hov/p5_02.html
http://www.emuunlim.com/doteaters/play2sta2.htm
http://www.emuunlim.com/doteaters/play2sta4.htm
インベーダーゲーム | ||
1978年、アメリカでAtari社の「VCS」がヒットを飛ばしたいるそのころ、日本では、ゲームセンターと呼ばれるスポットにコンピュータゲームが入るようになり、そこでは「テレビテニス」や「ブロック崩し」と呼ばれるようなゲームが人気を集めていた。 しかし当時のゲームセンターには、コンピュータゲームに比べ、ビンボールやスロットマシンのような機械が多く置かれていた。まだまだテレビモニターの中の遊びはメジャーではなかったのである。 最初は海外から輸入されてくるゲームが多かったが、次第に国産のゲームも登場し、店の中でコンピュータゲームが占める割合は次第に大きくなっていった。そして1978年、ゲームセンターからピンボールやスロットマシンを追い出してしまうほどの人気を集めるソフトが登場する。「スペースインベーダー」、いわゆるインベーダーゲームである。 当初、インベーダーゲームは発売元のタイトー社直営のゲームセンターに置かれていた。しかし、評判がいいことが分かると、タイトーはテーブル型のゲームマシンをリリースし、日本中のゲームセンターや喫茶店に販売していった。インベーダー人気は爆発した。喫茶店のテーブルは、次々にテレビモニターへと変わっていった。(ちなみに、このテーブル型筐体のゲームマシンは日本独特のもので、アメリカのカフェにこんなものは存在しない。) 一時は100円玉が不足するのではないか、パチンコ等の娯楽産業は壊滅するのではないか、とも言われるほど、インベーダーは大流行した。当然、海外にも輸出されることとなり、デパートやバーの入口等に置かれ、世界中で人気を博した。 当時発売されたばかりのAtari社「VCS」でもインベーダーは発売された。インベーダーが家庭にも入り込み始めたのである。ちなみにインベーダーは、初めてAtair社とライセンス契約を結んだアーケードゲームだった。日本国内ではまだ家庭用ゲーム機の市場はないに等しかったが、アメリカでは、VCSとインベーダーによって巨大なマーケットが誕生していたのである。もっとも、前項で述べたとおり、その市場はAtari自らの失策によって崩壊してしまうのだが。 インベーダーは「ブロック崩し」をヒントに考え出されたもので、静止しているブロックの代わりに、攻撃してくるインベーダーを配したのだった。極めて敵味方どうしの攻撃性が強いゲームといえる。インベーダーに影響を受けて、これ以後、日本のアーケードゲームの世界は百花繚乱の時代を迎える。攻撃性の高いシューティングゲームが流行し、どんどんゲーム内容は高度なものになっていった。現在のゲームの原型がここにできていたと言えるだろう。 インベーダー以外にも、後々まで有名になるソフトが出た。その一つが1980年にナムコからリリースされた「パックマン」である。ゲーム内容等に詳しくは触れないが、切れ込みの入った黄色い円の形をしたキャラクターは、誰もが一度は見たことのあるものだろう。この時期、数々の優秀なソフトが誕生していった。 |
「ファミコン」登場 | ||
1980年代に入り、日本でも家庭用ゲーム機が登場し始めた。国内の玩具メーカー・コンピュータメーカー、そして海外のゲームマシンメーカーが、競って新機種を開発してリリースしたのがこの時期である。もちろんAtariのVCSも輸入されていた。 1983年、各社が高性能なマイクロコンピュータを利用したゲーム機を発売する中で、白と地味な赤色でデザインされたゲーム機が登場した。見た目はパッとしない印象を与えるマシンである。しかし、それは他のどの家庭用ゲーム機より安価で、ゲームに必要なグラフィック能力だけはなかなか強力だった。おまけに、キーボードだとか、外部記憶用のカセットテープドライブといった、ただ手軽にゲームを遊ぶだけのためには必要ない周辺機器は何も付属していなかった。専用モニタも必要なく、普通のテレビにつないですぐに遊ぶことができた。(ファミコンの詳しい説明はこちら) そう、任天堂の「ファミリーコンピュータ」、略称「ファミコン」である(この略称も登録商標)。ファミコンの成功の要因は、大きく分けて二つある。 まず一つ目が、本体が安価で、操作が簡単で扱いやすいということである。当時の家庭用ゲームマシンは、簡単なパソコンとしての使用もできるように設計されているのが普通だった。しかしファミコンは、本体の機能は完全にゲームのみと割り切り、安価・シンプル、それでいてゲームに不可欠の画像処理能力は高いという、今から見れば理想的な設定だった。 もうひとつ、アタリ・ショック(※)の教訓を生かしたということがある。アタリ・ショックは、つまらないソフトの粗製濫造が招いた悲劇であったが、任天堂はソフトメーカー1社1社と個別に契約を結び、品質の悪い粗悪ソフトは発売を許さなかった。 ※:アタリ・ショックについては下のサイトもぜひ参照してください 結局、家庭用ゲームの市場を制したのはファミコンだった。「テレビゲームをする」イコール「ファミコンする」であり、他のゲーム機はすぐに忘れ去られた。最後発の目立たないマシンが天下を取ったのである。 これ以後、日本が世界のコンピュータゲームシーンをリードしていることは言うまでもない。 |