コンピュータゲーム黎明期

本項参照ページ
http://www.fas.org/cp/pong_fas.htm
http://www.emuunlim.com/doteaters/play1sta1.htm

コンピュータゲームの原点は、
マイクロコンピュータの上ではなく、
まして家庭用ゲームマシンの上でもなく、
電子工学の小部屋の中にあった。


ウィリアム・ヒギンボーサム博士のテニスゲーム

現在、子供たちの遊びの主流のひとつであるコンピュータゲーム。我が国ではその代名詞として「ファミコン」という呼び名があるが、コンピュータゲームの歴史をひもとくと、任天堂のファミリーコンピュータ登場以前にも長くさかのぼることができる。

コンピュータゲームが商業ベースとして成立したのは1970年代に入ってからであるが、それ以前にもコンピュータゲームは存在した。それは、大学や研究所の中で、狭い範囲の人々に楽しまれていたのだった。

歴史をさかのぼってみて、現在の意味でのコンピュータゲームと呼べる最初のものは、矛盾するようだが、コンピュータの上で動作するものではなかった。

米国立のブルックヘイブン研究所に勤務する研究者の一人に、ウィリアム・ヒギンボーサム博士(William A. Higinbotham)がいた。第二次大戦中、彼はレーダー技術の開発に関わり、「マンハッタン計画」では原爆開発のためのタイミング制御技術の研究に携わっていた。既に絶版だが、ヒギンボーサムの編著書をアマゾン・コムのリストに見つけることもできる。

1958年、ヒギンボーサムはアナログ計算機とオシロスコープを組み合わせて、簡単なテニスゲームを作った。ツマミを回してボールを打つ角度を調節し、ボタンを押して打ち返すタイミングを決める。画面の中央にはネットが描かれていて、それを飛び越えるように角度を調節して打たなければならない。現在の意味でのコンピュータを使ったものではなかったが、その内容はまさにコンピュータゲームであった。

研究所の一般公開日には、このテニスゲームは大人気となった。「みんなこれで遊ぶために長いこと列に並んだものだ」と研究者は当時を回想する。しかしヒギンボーサムは、これがビジネスになるなどとは少しも考えず、特許を申請するようなことはなかった。

ヒギンボーサムは国立の研究所に勤務していた。もしここで彼が特許をとっていたら、コンピュータゲームという遊び自体が国家の知的所有物になっていたかもしれない。現在のような、コンピュータゲーム世界の大きな発展はなかったのかもしれない。

ちなみに、終戦後のウィリアム・ヒギンボーサム博士は、米国科学者連盟の理事を務め、核拡散防止のため連邦議会との調停役として活動を行っていた。

スティーヴ・ラッセルの「Spacewar!」

スティーヴ・ラッセル(Steve Russell)は、MITに在籍するコンピュータマニアの一人だった。彼は仲間たちとSF小説を読んではそれについてしばしば議論していた。1961年、研究室に最新型のコンピュータが入ってきた。それは、DEC社の「PDP-1」だった。研究室の公開日に行われるデモンストレーションのために、ラッセルらはこのコンピュータの性能をフル活用したプログラムを書くことにした。

SFマニアでもあった彼らが小説に影響を受けて考えたのは、宇宙空間でふたつの宇宙船がミサイルを撃ちあって対戦するという世界だった。それをこのPDP-1の上で実現できないか。

そして1962年、このアイデアがラッセルと彼の仲間の手によって、9キロバイトのゲームプログラムとなって完成した。ゲームの名前は「Spacewar!」。世界初のインタラクティブなコンピュータゲームの登場だった。(写真はこちらを参照されたい。)

PDP-1に接続されたブラウン管画面には、キラキラと無数の星が輝き、そしてふたつのロケットが描かれている。当時はモノクロの画面だったので、それぞれのロケットの区別がつくように、太くて短い形のロケットと、細くて長い形のロケットにデザインされた。このロケットはその形から「Wedge」と「Needle」と名づけられた。

ロケットの操作は、PDP-1に付いているスイッチを直接操作することによって行う。相手のロケットの方向を向いて、ミサイル発止スイッチを操作すると、その方向めがけて一直線に光の筋が走っていく。当たれば相手のロケットは木っ端微塵である。

「Spacewar!」は学生や研究者の間で大人気となった。そしてプログラムのコピーが、コンピュータマニアたちの間で急速に広がっていった。ヒギンボーサム博士同様、ラッセルもまた、著作権を主張することも特許を申請することもしなかった。彼らにとっては、自分たちの作ったプログラムを多くの人が楽しんで利用してくれることが最大の喜びで、それ以外のことにはあまり興味がなかったのである。パブリックドメインソフトの黎明期でもあったといえる。

DECのセールスマンが、PDPの売り込みの際に「Spacewar!」をデモンストレーションとして使用するほどに、このゲームは完成度が高く人気のあるものだった。こうして瞬く間に広まっていった「Spacewar!」は、各地でその改良版が作られることとなった。ミサイルが連射できるものや、ピンチのときにはワープできるようなバージョンも作られた。それも、ラッセルたちとは全く関係のないところで。また、DECのPDP以外の機種を利用するユーザは、その機種でも動くようにプログラムを改造した。

現在でもMITのサイトの上には、Javaアプレットとして「Spacewar!」が存在する。

この時代に、誰もコンピュータゲームがビジネスになるなどとは考えるはずもなかった。コンピュータユーザたちにとっては、プログラムを書くことからゲームであり、自分のプログラムがどれだけ評価されるかがゲームであり、それで十分だった。しかし、この牧歌的な時代の流れの中でも、PDP-1の画面の向こうにアメリカンドリームを見る野心家がいたのだった。

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