実家の近くのたんぼ道を歩くのはあんまり気持ちのいいものではないですねぇ。小さい頃、あんまり面白くないのに仕方なくやった鬼ごっことか、あんまり面白くないのに仕方なくやった缶けりとか、あんまり面白くないのに仕方なくやった三角ベースとか、あんまり面白くないのに仕方なくやったザリガニ取りとか、そんな過去が思い出されるので。
よく、「小学生のころはよかったなー、毎日遊んでばかりで」なんて言う人がいますが、果たして本当にそうでしょうか。子供社会の一員として負わなければならない義務としての「鬼ごっこ」をしなければならなかったあのときよりも、したくない遊びははっきりイヤと言って断ることのできる今のほうが、私には幸せですけどね。現在のお子様方はどうだか知りませんが、鬼ごっことか缶けりとかザリガニ取りとか三角ベースとかそういう遊びって、少なくとも私の場合「外で遊びなさい」と親から言われてやっていたのではなくて、自分も属する「子供」という集団の要請によってやっていたような気がするのです。
これは、みんなと一緒に遊びをやらないと仲間外れにされるから、というレベルの話ではありません。私が考えたのは、「子供というのはこういう遊びをするものなのだ」という固定観念が個々の子供自身の中にあって、「誰かから仲間外れにされるのが怖いから」などというネガティヴな理由無しに、それぞれの子供が、一見自主的に、鬼ごっこ行動や缶けり行動に駆られてしまうのではないか、ということなのです。だから、当時一緒に鬼ごっこをして遊んでいた仲間も、ひょっとしたら、それほど楽しいとは感じずに仕方なく遊んでいたのではないか、子供社会の一員という役割を「演じて」いたのではないか、そんな気になってしまうのです。
ずいぶん暗い子供時代ですねそんなに面白いことがなかったんですか、と言われてしまいそうなのですが、いやいやとんでもない、そんなことはありません。「あんまり面白くないのに仕方なく」を全く感じずに、全身で楽しさを享受することのできる遊びがあったのですよ。言うまでもありませんね、テレビゲームです。
途中で、個人経営の小さな店舗ながら尾張旭市民の95%(推定値)は知っている書店「活人堂」で「ダ・カーポ」9月20日号を購入。たまにはそんな雑誌も読むんですか。実家に帰ると早速親父が「話がある」と言うので聞くと、今月いっぱいで会社を辞めるとのこと。この先1年半は失業状態が続くそうです。親父が自分で考えて自分で決めたことなので、私は何ということもなく事実を確認するだけなのですが。「もしあのとき」を考えるのは全く意味のないこと。
夕飯をいただいて風呂に入ってから帰ります。もう夜の8:00過ぎで店とかも開いていないから寄り道せずに帰るか、と思っていたのですが、大曽根駅で名鉄瀬戸線から中央線に乗り換えるとき、少しだけ時間があったのでゲームセンターへ。未だに「レイブレーサー」が置いてあったのでプレイ。画面には「ハンドル反力搭載」と出ていたのに、実際は普通のバネハンドルでした。サギだ。なんてことを、5年前の自分も経験していたような気がします。
外へ出てくると、カラオケ屋の前でタバコを吸っている金髪の高校生、いや中学生っぽいな、がいたりしてとても微笑ましく、すっかり気分はなごみモードに移行。まっすぐ帰る気もなくなり、本能的に暗い路地へ吸い込まれていきます。たくさんあるうち半分近くの電球が切れている風俗店の看板。店舗が軒並み撤退して解体寸前のアーケード。電話ボックスの横でじゃれ合う男女。道路脇に散乱するサラ金のチラシ。いやーもう癒される癒される癒される。アスファルトの路面からコールタールが頭頂部まで染み込んできて、コンクリートの路面にその熱が流れていく。脳と脊髄の接続部分あたりがひんやりとして気持ちいい。そんな感覚を路地裏で楽しんでいると、もう10:00前になってしまったのであわてて駅に戻ります。
名古屋10:20発の新快速に乗って浜松まで約1時間半。浜松駅へ降り立つときが、生活の中で最もダウナー入れるときであります。暗くなるわけではありませんが、とにかく「どうしようもない」という気分が全神経を支配します。常磐町交差点のデイリーヤマザキでエロ本と雪印牛乳を購入して帰還。