社会過程とは、社会におけるあらゆる相互作用の進行と推移を捉える概念であるから、「社会」という言葉と「コミュニケーション」という言葉を並べた場合、「コミュニケーションがあるからそれは社会と呼べる」のか、それとも「社会が存在するからそこにはコミュニケーションがある」のか、いわゆるニワトリとタマゴの関係の堂々巡りになってしまう。そのどちらもが真理を含んでいるというのが妥当だろう。また、様々な社会過程のうち、コミュニケーションは代表的な位置にあるとも言えよう。
近年急速な発達を遂げているコンピュータネットワークというものにも、この考え方を当てはめることができる。
元々、コンピュータネットワークとは、遠隔地にある高性能コンピュータの能力を手元の端末で利用したり、プログラムやデータなどの情報を複数のコンピュータで共有したり、プリンタなどのハードウェアを共用したりするために考えられたものである。
しかし、パソコン通信を経て、インターネットが普及し、誰もが手軽にネットワーク接続の環境を手にするようになった。しかも、インターネットはその性質上、一定の範囲内でのみ利用可能な従来のネットワークとは異なり、オープンなネットワークである。そこでは、従来のコンピュータネットワークの目的は薄れ、コミュニケーションの道具としての役割が重要視されるようになってきた。最も基本的なものに電子メールがあり、他にも掲示板、チャットボードなどがある。また、独自のアプリケーションソフトを使うものとして、オンライン状態の相手のコンピュータに直接メッセージを送る、インスタントメッセンジャーなどもある。
「コンピュータネットワークは新たな独自の社会を形成している」などと言われることが多い。ネットワーク上に存在するのは電気の流れだけであり、その他には何もない。実体として人間が存在するわけではないし、何か物が移動することもない。存在するのは、影も形もない情報の流れのみである。それでも、ネットワークが社会であると言われるのは、情報の流れ=コミュニケーションが行われるからであり、逆に言えば、コンピュータネットワークが社会であるから、そこで盛んにコミュニケーションが行われるのである。
実体のないコンピュータネットワークを、社会たらしめているのはコミュニケーションのみなのだから、ネットワーク上では「コミュニケーション=社会過程」という図式が成立することになる。
それでは、コンピュータネットワーク「社会」でのコミュニケーションは、従来のリアルワールドのコミュニケーションと比べてどのような点で異なっているのだろうか。
まず、最も特徴的なのが、コミュニケーションの相手の顔が見えないという点である。メディアを介したコミュニケーションでは全て、相手の顔を直接見ることは不可能だが、従来の場合は、相手を特定する何らかの記号が付随する場合がほとんどだった。手紙でのコミュニケーションでは名前と住所、電話でのコミュニケーションでは電話番号によって、ある程度の範囲で相手を特定することが可能だった。それに比べると、コンピュータネットワーク上でのメールアドレスと個人との結びつきは、非常に小さいものである。これらの記号から個人を特定することは不可能ではないが、偽ろうと思えばいくらでも偽ることが可能である。
また、それと同様のことであるが、匿名性が非常に高い。ネットワーク上でのコミュニケーションでは、お互いを呼び合うときに「ハンドルネーム」という仮名がしばしば用いられるが、これはペンネーム同様、自分で自分を勝手に名づけることができる。従来のコミュニケーションに比べて特徴的なのは、オープンなコンピュータネットワークでは、実名を用いるよりもハンドルネームを用いる場合が多いということである。
メディアを介したコミュニケーションという点に注目すれば、直接人間同士が会って会話をする場合と比較して、コミュニケーションに用いることができる表現手段が限定されるという特徴を挙げることができる。
特にコンピュータネットワークの場合は、通信技術がめまぐるしく進化しつつあるとはいえ、コミュニケーションのほとんどは文字で行われる。手紙でのコミュニケーションでは、書簡をやりとりする際に時間がかかることがはじめから分かっているので、相手から届いたメッセージの内容をゆっくりと読みとることが可能で、返信するときも十分に内容を推敲することが可能である。電話でのコミュニケーションでは、相手の顔は見えないものの、声の調子から相手の心理状態をある程度読みとることが可能である。
しかし、コンピュータネットワーク上では、メッセージは瞬時にして相手に伝達され、しかも表現手段は文字に限られている。そのため、相手の心理状態を十分に考慮しないまま、即座に直接的な表現を用いて返答するコミュニケーションが発生してしまうことがある。人間の内面がダイレクトに表出ことにより、より豊かなコミュニケーションの場が得られる場合があるが、字面だけをとらえた意見衝突や、相手の人間性を否定するかのような発言が飛び交うフレーミングに発展することも多い。
これら、コンピュータネットワーク上でのコミュニケーションの特徴を見てみると、何か目的があって、その目的を達成する手段としてネットに接続しているというよりも、コミュニケーション自体が目的となっていると言えるのではないか。
相手の顔が見えない、相手が誰かさえ分からない、そのような条件では本来、相手に対する親近感や信用などが発生するはずはない。利用者以外から見れば、「そんな仮想的なコミュニケーションに何の意味があるのか」ということになるが、それでもユーザーたちは飽かなくネットワークにアクセスし、コミュニケーションを楽しんでいる。
「年賀状は、ハガキによって伝達される情報よりも、それを交換すること自体に意味がある」という事例は、まさに純粋な意味での社会過程としてのみ機能するコミュニケーションの例だった。ここで重要となっているのは、どのようなメッセージの伝達が行われたかではなく、コミュニケーション自体が行われたかどうかである。内容は二の次なので、コミュニケーション感を覚えることができたか、と言い換えることもできる。
それならば、コンピュータネットワーク上でのコミュニケーションにも同じ事が言える。相手がどんな人物かは全く分からないし、用いることのできる表現手段も限られている、そんな条件下では、コミュニケーションをしている相手は、もしかすると人間ではなく、コンピュータプログラムである可能性さえある。しかし、それでもかまわないのである。ネット上でコミュニケーションを楽しむ人々は、コミュニケーションがちゃんと成立しているかどうかは二の次で、コミュニケーションをしているという感覚があるか否かが問題なのである。
コンピュータネットワークを社会として成立させているのは、コミュニケーションのみであったが、そのコミュニケーションも、既に手段ではなく目的と化している。ネット上のコミュニケーションは、コミュニケーションという概念自体を最も純粋に抽出したものと捉えることが可能である。