マルチメディアの特質を考えるにあたって、まず最初に、「マルチメディア」という語の意味を考えておくことが不可欠であろう。英語でつづれば[multimedia]となり、[multi-]は「多様の、多重の」を表し、[media]は既に日本語化した「メディア」であるが、そのような辞書的な意味を確認したところであまり意味があるとは思えない。
そこで、「メディア」とは何か、そして、何が「多様、多重」なのかを考えてみる。メディアの役割は、情報を伝達することである。当座の役割として記録があるが、記録は未来の他者または自分に情報を伝達するための行為なので、区別する必要はないと私は考える。では、情報を伝えるもの全てがメディアかというと、広義にはそのように捉えることも可能だが、ここでは紙・フィルム・電気・磁気のような人工物に限定し、これを狭義のメディアとする。これ以降メディアといえば狭義のメディアを指す。水や空気、生物の挙動など様々なものを広義のメディアとして挙げることが可能だが、今回の主題はコミュニケーション科学ではないので、これらは対象外とする。
次に、「多様、多重」についてだが、二点について多様性や多重性を挙げることができる。まず一つが、情報そのものが多様、多重であるという点である。マルチメディアと言われる場合、文字・音声・映像の三種の情報が単一のメディアに担架されていると説明される(た)ことが多い。しかし、単に文字情報といっても、コード化されているものだけではなく、映像として存在するものもある。同様に、音声の情報といっても、何らかの方法で録音されたものだけでなく、楽譜の情報(*1)もある。映像にも静止画と動画がある。つまり、「文字・音声・映像」と分類することは不可能である。「情報が多様、多重」なのであり、「三種の情報が一度に」ではないのである。
もう一つの多様、多重は、情報の流れる方向である。例えば、本を読むという場合、情報は紙の上から読者の方向へ流れ込む。しかし、読者が本の中へ情報を流し込むということはありえない。書き込みをするという場合もあるが、いつでもそうするのではなく、本というメディアの普通の使い方ではない。マルチメディアの場合、ユーザーが何らかの請求を行い、それに応じて情報が引き出されるということが基本である。情報は、ユーザとメディアの間で双方向にやりとりされることになる。
ここでもう一つ注目すべきことがある。マルチメディアにおいて、ユーザの請求に応じて情報が引き出されるということは、情報が引き出される順序も多様=マルチになるということである。従来のメディアでは制作者が決定した順序で情報は引き出されたが、マルチメディアではその順序をユーザが決定するのである。情報は初めから終わりまで一方向で流れるのではなく、終わりから始めに向かって流れたり、前進と後退を繰り返したり、任意の一地点のみ取り出されたりと、その流れる方向も多様である。
つまりマルチメディアとは、メディアのうち、情報の種類及び情報の流れる方向がマルチなものを指すことになる。
それでは、マルチメディアが実現するアプリケーションとして、どんなものが挙げられるだろうか。「ビデオ・オン・デマンド」「オンライン・ショッピング」「CD-ROMソフトウェア」「在宅勤務」「コンピュータ支援型教育システム」「GUIデータベース」等々。1990年代初めから中頃にかけて、コンピュータメーカー各社がまくし立てた宣伝文句である。
では、果たしてこれらのアプリケーションが、マルチメディアなのだろうか。まずこれらをメディアと呼ぶことが可能かを考えてみると、どれも情報を伝達する人工物と一体不可分なものなので、この点については問題ない。しかし、情報の種類及び情報の流れる方向がマルチであるという条件については、必ずしも満足しているとはいえないものばかりである。
ビデオオンデマンドやオンラインショッピングは、確かに求める情報を得るまでのプロセスにはマルチメディアが利用されているが、最終的に行われるのは従来通りのビデオ鑑賞であり、買い物である。CD-ROMソフトウェアでは、豊富な映像や音声が文書資料と同時に収録されている場合が多いが、CD-ROM自体はただの大容量格納庫である。その収録資料を組み合わせて再生し、マルチメディア性を与えようとしているのはコンピュータプログラムであるが、音声と文書を同時に出力するプログラムは目新しいものではない。ユーザーの思うままに情報を閲覧できる双方向性といっても、情報の流れる方向は、CD-ROMの上にとどまっていて、常に未知の情報の世界が目の前に繰り広げられるわけではない。非常に制限されたマルチである。
このように考えていくと、どのアプリケーションも、それ自体がマルチメディアの本質であるとは言えないことになる。では、マルチメディアとは一体どこに存在するのか。コンピュータメーカーが宣伝文句にした数々のアプリケーションは、全て再生側の視点から見える部分の話である。しかし、「伝達」というメディアの本来の役割を考えると、再生側だけでなく、制作側、言い換えれば、情報発信者の視点からの議論がなければ、そのメディアについて理解したことにはならないであろう。
情報発信者の視点からマルチメディアを考えると、マルチメディアによって「どんなアプリケーションが利用可能になるのか」ではなく、「何が伝えられるようになるのか」が焦点となる。
近年、「メディア・アート」という芸術分野が盛んである。科学技術を芸術に生かしたもので、多くの作品は、鑑賞者の働きかけによって何らかの反応を返す。従来、芸術作品は、絵画、音楽、文学、立体物などであり、その中に制作者の思想・感情表現を託して、鑑賞者に伝えるものであった。総合芸術と言われるオペラは、これを組み合わせたものであったが、鑑賞者が作品の表現内容に与することはなかった。
近年のメディア・アートを鑑賞してみると(*2)、すぐにこれが「マルチメディア・アート」であることが分かる。伝達される情報は多種多様であり、情報の流れる方向もマルチである。制作者の思想・感情表現を伝える作品であるのだが、その中に、鑑賞者が介入する余地があるのである。単なる表現手段を越えて、より積極的に、制作者と鑑賞者の間でコミュニケーションをはかろうとする方向性を持つ芸術であるといえる。
ここで、ハワード・ラインゴールドの著書「バーチャル・コミュニティ」の主な主張である、電子ネットワークは単に情報入手を目的とするのではなく、コミュニティとして機能することが必要である、という考え方が思い起こされる。
マルチメディアの本質は、まさにこの「コミュニケーションを促進するメディア」というところに存在するのではないか。確かに、映像や音声が組み合わさって新たな感動を得る、という点も、マルチメディアの大きな特徴である。しかしそれ以上に、情報の流れる方向がマルチになることによって、情報を送り出す側と受け取る側のコミュニケーションを促進すること、そればかりか、双方の境界が取り払われつつあることのほうが重要な特徴であると私は考える(*3)。
「人は情報へのアクセスよりも、コミュニケーションの手段を求めているのであって、実用的な情報のデータベースを提供するのと同時に市民対市民のコミュニケーションも強調することが大事なのだ。」(*4)
これは電子ネットワークだけでなく、マルチメディアに必要な方向性ともいえる。
マルチメディアは、利用者にとってどのような利便性があるかということについて語られることが多い。しかしそれでは、情報の流れがマルチであるという特質について、十分に語ったことにはならない(*5)。
様々な種類の情報が様々な方向へ流れる、そのことにより、情報発信者と受信者の間で新たなコミュニケーション機会が発生する。思想・感情がよりリアルに伝達される。そのことこそが、マルチメディアの特質であり、今後、マルチメディアが目指していくべき方向なのである。
脚注:
*1 実際に音声を録音した波形情報でなくとも、再生側に同一のシンセサイザーがあれば、MIDI等を利用して全く同じ音声を伝達することが可能である。
*2 「NTTインターコミュニケーションセンター」。
*3 映像・音声が組み合わさって新たな感動を得るという点だけをマルチメディアの条件とすると、従来のビデオゲームもマルチメディアといえよう。
*4 ラインゴールド「バーチャル・コミュニティ」p.490
*5 アプリケーション面のみが盛んに強調された「ニューメディア」の失敗は示唆的である。