「アメリカの寿命」は、三菱総合研究所の二人のエコノミストによって書かれた、90年代のアメリカを占う文献である。主な内容は、客観的なデータを用いてアメリカの動向を予想することである。アメリカと日本、ドイツ、アジア諸国などとの対比が随所で行われていて、アメリカ社会の特徴を読みとることができる部分も存在する。著者の主張を捉えるとともに、前回のレポート対象文献(*1)の主張と関連がある部分を照らし合わせてみたい。
前書きの中で著者は、アメリカ経済は衰退しつつあり、また、パックス・アメリカーナ崩壊後に重要な役割を果たすべき日本は、経済力では一流でも政治力や軍事力では著しく劣位であると指摘して、その上で次の二点を本書のテーマとしている。一点は、大国アメリカに経済力の復権があるかどうかを検証することである。もう一点は、経済力と軍事・政治力のギャップからどういう問題が生じるのか、日本がどんな役割を演じるべきかを捉えることである(*2)。
この二つのテーマについて、著者はどのようなことを述べ、何を主張しているかを考えてみる。まず、第一のテーマである「アメリカに経済力の復権があるか」ということであるが、結論から言うと、アメリカの没落は続くと著者は述べている(*3)。その最大の原因は、経済力の基盤となる製造業の再生がきわめて困難な点にある。
日本の株主が企業に要求するのは主に安定した成長であるのに対し、アメリカの株主は主に株価の上昇を求める(*4)。そのため、アメリカの資本は、短期的利益還元度を重視する。すなわち、企業の長期的将来性のために必要な設備・技術開発投資にあまりコストをかけたがらない。不況に入ればそれはなおさらのことである。だから、日本などに対する競争力低下は避けられない。
また、日本では政府による産業への政策介入がある。通商産業省が大変強力な力を持っている日本に対して、アメリカの商務省は製造業に対する力が極めて小さく、また、個別の産業への政策介入を好まない雰囲気が社会全体に存在した。しかし、長らくレッセ・フェール、すなわち自由放任を貫いてきたアメリカも、産業政策の推進を余儀なくされるようになった。
アメリカ政府が産業への介入を開始したということは、アメリカ経済力の疲弊化に伴うものであるということ以外にも、累積する財政赤字の削減のため、財政政策を自由に展開できないためでもある。これまでの経済政策が限界に来ているということである。しかし、産業政策が必要という意見は必ずしも定着していない。事実、本書が書かれた当時のブッシュ政権の基本的スタンスも、産業政策無用論であった。著者は、アメリカの産業の戦略性の無さを指摘し、製造業重視の考え方を取り入れることを提唱している。
著者が唯一アメリカの産業政策・技術開発戦略に可能性を見いだしているのは、軍需産業の活用である。経済力では没落しつつあるアメリカも、軍事的には圧倒的優位である。軍事技術を利用して民生技術をレベルアップし、この技術を国際的にオープンにはしないことにより独占的地位を保とうというものである(*5)。しかし著者は、これ以外のアメリカ経済復権は難しいとしている。
第二のテーマである、経済力と軍事・政治力のギャップの問題、そしてまさにそのギャップを抱えた日本の進むべき道について、著者の主張はどんなものだろうか。鍵になる事件は、1990年の湾岸戦争である。この戦争では、アメリカはその圧倒的な軍事・政治力を用いて、多国籍軍という形ではあるが、実質的には「アメリカの戦争」に勝利した。しかも、戦費は日本やドイツといった「経済のみの大国」から調達したのである。軍事・政治力のアメリカと、経済力の日本・ドイツという構図がはっきりしたわけである。
アメリカは、湾岸戦争の勝利により、ヨーロッパでの勢力の巻き返し・アジアの覇権再建を図ろうとするわけだが、著者によると、今回の戦争のように、大国の圧力によって秩序を維持するやり方はもう限界に達しているという。冷戦時の二大勢力の緊張が無くなったことで、かえって小紛争が頻発するようになっているが、この原因は民族問題・政情不安・国境・宗教・経済的不安定と様々で、アメリカ式の力押しで解決するものではない(*6)。
そして、「お金しか出さない」ドイツや日本がいつまでもアメリカ追従を続けるという保証はどこにもない。特にドイツは、アメリカに対抗意識を持つヨーロッパ諸国のバックアップがあるので、「対アメリカ反乱」が起こると考えるほうが自然である。軍事資金源を失うアメリカは、パワーダウンが一層加速することになる。
超大国の資金不足が浮き彫りになる中、黒字国日本には世界のリーダーたりうるチャンスがあるのではないだろうか。国際社会の中で日本に求められているものは、やはりお金である。湾岸戦争の際に「お金しか出さない日本」と叩かれたが、日本にとってはお金こそ最高の貢献であり、湾岸戦争のときはベストの貢献だったと自信を持つべきだと筆者は主張する(*7)。アジア諸国の反応を考えれば、日本の海外派兵は妥当なものではないだろう。
日本にとって不足しているのは、明確な国家意思である。エネルギー問題、農産物自由化、環境問題、そして国際貢献と、日本には答えを出しかねている、あるいは中途半端な答えにとどまっている問題が多すぎる。国家意思のない国に世界のリーダーなどつとまるはずがない。没落するリーダー国と、意思も資格もない次期リーダー候補国との葛藤が、世界体制に新たな混乱を生じているのだという。
リーダー無き世界体制がやってくる。その中で日本の役割は、国際的に経済面で貢献すること、安全保障のコスト負担(PKO協力を含む)、老大国アメリカのサポートの三点を挙げている。そして最も必要なのは、日本国民の国際社会の一員であるという自覚であるとして本書は締めくくられている(*8)。
私は、第二のテーマについての著者の主張はに賛成できる点も多いが、第一のテーマについては、著者が見逃している点が多いと考える。製造業が経済力の基盤をなしているということは正論だろう。しかし、製造業で得られる利益は次第に小さいものになってきている。付加価値こそが、大きな利益を生み出す時代であるという点に全く言及せず、「製造業・技術開発」の一点張りでは、90年代を読むことはできなかった。
たとえば、現在日本に輸入されてくる自動車は、かつてのような大排気量のものばかりではなく、1000cc台のものが増えている。日本をターゲットにした発想の転換が行われているのである。アメリカ本書が書かれた1991年でも、付加価値の時代の兆候はあったはずである。
また、既にバブル崩壊は始まっていたであろうにもかかわらず、その点にほとんど触れず、経済大国日本が90年代も安定して続くかのような書き方である。出版から8年を経過した今から読むから奇妙に読めるのかもしれないが、研究機関の名前を冠した出版物にしては分析が甘いと言える。
私が注目したのは、アメリカでは企業に長期的な安定成長よりも、目の前の株価上昇を求めるという点である。当然、これが達成できない経営者は、株主の文句によって経営から引きずり下ろされることになる。このことは、前回の文献「『無意識の意思』の国アメリカ」でも同じ内容の事柄が述べられていた(*9)。今回の「アメリカの寿命」では、アメリカで長期的な投資に資本が向かうようにするには社会自体の革新が不可欠(しかしそれは極めて困難である)、と繰り返し述べられているが、前回の文献によれば、アメリカの持つ「無意識の意思」を変革することと言え、困難であるのも当然である。
脚注:
*1 薬師寺泰蔵「『無意識の意思』の国アメリカ−なぜ大国は蘇るのか」(日本放送出版協会,1996年)
*2 佐藤公久・坂本俊造「アメリカの寿命」(PHP研究所,1991年)3-6頁
*3 同上書 170-178頁
*4 同上書 29頁
*5 同上書 112頁
*6 同上書 147頁
*7 同上書 180頁
*8 同上書 220頁
*9 薬師寺「『無意識の意思』の国アメリカ」15頁