情報社会論


対象にした文献:ハワード・ラインゴールド著「バーチャル・コミュニティ」

 「バーチャル・コミュニティ」は、電子ネットワークはどのような社会を形成するのかについて、筆者の経験した出来事を中心として述べられたものです。

 サイバースペースでいま何が起きているのかを知ることは、

『サイバースペースのどこでも一角に実際に飛び込んでみて、そこに生活し、バーチャル・コミュニティが直面する問題にとことん取り組んでみて初めて実現される。』(p.38)

ので、経験談が中心になるのは必然といえます。

 この本の中で特に繰り返し述べられている中心的な主張は、「電子ネットワークは単なる情報入手手段ではない。人対人のコミュニケーションの場、コミュニティとして機能することこそが重要なのであり、人々もそれを求めている。」ということです。

『私は、情報を持っている人のほうが、情報そのものよりもずっと魅力的であることに気がついた。』(p.110)

『人は情報へのアクセスよりも、コミュニケーションの手段を求めているのであって、実用的な情報のデータベースを提供するのと同時に市民対市民のコミュニケーションも強調することが大事なのだ。』(p.490)

『(商用ネットサービスについて)画面上の情報が売らなければならないのもののすべてだったとしても、人々が相互に対話するための手段を提供しない限り、だれも情報にはまったく興味をもたないということだ。』(p.499)

 上のように、筆者は常にネットワーク上にコミュニティを求めています。そのコミュニティはいったいどのような性質のものなのでしょうか。

 電子コミュニティの性質としてまず挙げられるのが、そこは「交流スペース」であるということです。私たちが暮らす地域社会のコミュニティでも、その最も基本的な機能は交流であるはずです。しかし、生活様式の変化により、コミュニティの成立する場所は少なくなりつつあります。

『車中心で郊外型のファースト・フードやショッピング・モールに代表される生活様式によって、これらの「第三の場所」(※注)の大半が世界中の街や都市から消え去り、既存のコミュニティが織りなす社会的な関係がバラバラになり始めた。』(p.55)
注:レイ・オルデンブルグ著『偉大なよき場所』の中で述べられる「陽気に楽しむために集まる場所」を指す。

 筆者によれば、私たちの実生活からインフォーマルな交流スペースが奪われていく中で、コミュニケーションを求める人々の渇望が電子コミュニティを生み出したのかもしれないといいます。

 その交流スペースでは、文字だけの会話にもかかわらず、リアルなコミュニティ同様、「今度どこそこへ旅行に行く」だとか「うちの子供はアニメのキャラクターの何々が好きだ」だとか、雑多なことが話されます。ただ、リアルなコミュニティと違うところは、地理的には出会えるはずのない人々とでも、まるで隣人のようにつきあうことができるということです。

 時として電子コミュニティは、リアルなコミュニティ以上に強い結束を見せます。筆者に何か分からないことがあったとき、困ったことがあったとき、電子コミュニティはそれにすぐ応えてくれます。実際には会ったことさえのない人にすすんで手を貸してくれる、そんな助け合いの精神は、ネット上のアプリケーションにも見られます。

『ユーズネットはボランティアによる壮大な取り組みである。つくった人びとは、自発的にそうしたのであって、ユーズネット用のソフトを共有の物として提供した。』(p.241)

 ユーズネット(ネットニュース)だけでなく、IRC(インターネット・リレー・チャット)やMUD(マルチ・ユーザー・ダンジョン)など、電子コミュニティ上で利用できるアプリケーションは大部分が無償で提供されています。

 なぜそのように強力な結束やボランティア精神が生まれるのか、本の中で直接は述べられていません。しかし、ひとつ明確に主張されているのは、電子コミュニティにおいては、場合によっては現実の世界よりもオープンに自己を表出できるということです。

 また、MUDなどでは、もう一人の別人格を演じたり、別の性を演じるということがよく見られます。これは電子コミュニティに特徴的に見られる興味深い点ですが、同時に筆者は次のように警告もしています。

『個人的には、私は、CMC(※注)が「詐欺を防ぐ盾ではない」ということを根本的に理解することは、今日サイバースペースに入植しつつある大勢の、まだ手ほどきを受けていない人びとに必要な免疫だと思う。』(p.302)
注:CMC=Computer-Mediated Communicaitons
コンピューターを媒介としたコミュニケーションのこと

 ただこの文は、「免疫」を人々がみな身につければ、別の人格や性を演じることはそれほど問題ではない、と解釈することも可能であり、筆者はむしろその点を述べたいのではないかとも考えられます。

 この本の最終章は「反情報主義」というタイトルが付けられ、無制限な電子コミュニティの賞賛に警鐘を鳴らしています。高度に電子的に結びつけられた社会は、十分にプライバシーを確保することが難しく大変危険なものです。また、電子コミュニティに広告などの商業が入り込んだ場合、一部の大資本によって、供給される情報が管理される可能性もあります。そして、コンピューターテクノロジーに頼れば本当の民主主義が実現されるとか、社会の諸問題が一挙に解決するとかの考えは危険だとも筆者は主張しています。

『売り込みの魅力に屈したり、新しいテクノロジーを幻想の装置として拒絶するのではなく、私たちは新しいテクノロジーを間近によく見きわめ、どうしたらより強く、より人間的なコミュニティを建設するためにそれらが役に立つのか、そして同時にその目標にたいしていかに障害となりうるのかを問う必要がある。』(p.541)

 本の最後の部分で、以上のように筆者は述べています。

 私は「バーチャル・コミュニティ」を読んで、この本の筆者は、基本的に電子コミュニティ賞賛者であり、電子コミュニティは本質的に民主化の能力を持っていると信じていると感じました。民主化の力を持つということの根拠になる事例もいくつか挙げられていました。私も筆者の論理には賛成できる点が多いです。

 ただし、現実には、必ずしも電子コミュニティは筆者のいう通りにはなっていません。特に、WWW等の技術のおかげで、インターネットが誰でも手軽に利用できるようになってからは、コミュニティとしての機能より、ツールとしての機能が目立つようになっていると私は考えます。

 筆者が当時参加していた「WELL」という電子コミュニティは、文字情報だけであり、また、現在と比べれば、比較的積極的に電子コミュニティに参加しようとした利用者が多かったように読めます。コンピューターネットワークがコンピューターファンだけの物ではなくなったいま、電子コミュニティのデザインにも、若干の修正が必要なのではないかと思います。


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