教育学概論


 成績評価と進級について考えてみたい。

 初期の学校においては、等級制のため6ヶ月ごとに試験が行われ、それが成績評価の大きな部分を占めていた。等級制での進級の基準は、在学年数や年齢といった、現在の学校での進級基準とは全く異なり、生徒一人一人の学業成績で全てが決まっていた。必然的に試験の重要性は高まる。生徒の学力を判断する、唯一の方法であったといっても過言ではない。

 当時の試験は、役所の所轄の下で行われる厳重なものだった。また、参観人として大勢の父兄が集められ、もちろん、父兄を集めるということは学校に対する地域住民の関心を高め、また、学校教育を開かれたものとするのに役立ったかもしれないが、そのような公衆の前で行う試験は、当然競争試験の性格をまぬがれないものになった。

 競争試験に拍車をかけるのが、成績発表である。試験終了後すぐに試験結果が公表され、それは当然地域住民に注目されるのだ。さらに、学校と学校を比較する試験も行われるようになり、本来の試験の目的から逸脱した、半ば異常な状態になっていった。

 しかし、次第に国民の教育に対する関心も高まり、ことさら興味をあおる必要もなくなってくると、その異常状態の弊害のほうが目立つようになってきた。そこで文部省も競争試験を是正する方向に向かった。

 当時は、小テストの結果で教室の座席の順番を決めるという、現在でも順位を席次と呼ぶ慣習のの起源であることが行われていたが、このときこれも廃止になっていった。そして、進級の判定は特別の試験で行うのではなく、普段の成績によって行われることになった。

 ただしこのことは、単純に弊害をなくし、生徒を平等化するために競争試験を廃止したわけではない。ここで行われる平等化とは、あくまで天皇の下での平等である。教育の画一化であり、それは教育が国家主義に傾いていくことの現れでもあったのだ。それは、全国的に教授内容を統一・統制していくという当時の教育活動の方向からも見て取れることである。

 さて、学年終了や卒業の判定、すなわち最終的な成績評価は特別の試験によらず平素の成績考査に基づくということは、現在でも変わらないことのはずである。しかしながら実際は、「中間テスト」、「期末テスト」、あるいは長期休暇明けの「実力テスト」などという名称が付いている、定期的に行われる「特別の試験」の結果が、成績評価の8割方を占めている。

 特に高等学校では小学校・中学校と異なり、単位が認定されないと進級することができないので、成績評価は重要なものである。私事で恐縮だが、一度「1」の成績を取り、追認考査を受けることになった経験がある。しかし追認の試験問題は、本試験の時と全く同じ問題をさらに簡単にしたもので、解けないはずがないものだった。

 成績の悪い者がこんなことを述べるのもどうかとは思うが、せっかく必死になって勉強してきたのに、あれでは何のための追認考査か。生徒を馬鹿にしているとしか言えないような試験だった。ほとんどの教科でそれは同じのようだ。

 愛知県内の別の高等学校での話だが、ある成績の悪い生徒が試験終了後に先生に呼び出され行ってみると、「この問題が合ってれば点数が足りるから、いま書き直しなさい」と言われたということだ。

 行き過ぎた平等主義が、このような事態を生んでいるのではないか。在学年数や年齢を基準とした成績評価は、確かに表面上は平等であるが、生徒の能力に対しては不平等である側面も持ち合わせているのだ。このようにして進級した生徒は、次の年次でもその科目に大変苦労することになるだろう。おそらくはそれ以前にその科目を放棄してしまうだろう。これでは教育の目的は全く果たされないのではないか。

 教育の平等化のきっかけの一つに、天皇の下での平等という点があったことも忘れてはならないだろう。もちろん現在もそれが続いていると言い切ることは難しいだろうが、教育の画一化が起こっているのは間違いないことである。これも、全ての生徒に同じ教育を施すと言うことを考えればメリットと取れるが、政治が教育にかなり積極的に関与していることに間違いはない。

 つまり、何が何でもと言っていいほど平等にこだわる現在の教育システムは、そろそろ見直す時期に近づいているのではないかということである。

 生徒一人一人の個性を尊重し、能力に合わせた教育を、ということが盛んに言われている。現在の教育システムでは、それは難しいだろう。教員の数、学校の数、予算などの問題がまず考えられる。そして、実際の指導内容・方法も非常に難しい。しかしもっと根本的な部分、学年制度から考え直す必要があるのではないか。

 1年間というスパンで区切られた現在の教育システムでは、結局、進級や卒業の判定に定期的な考査が必要になってくる。平素の成績で判断するというのも、結局は何か課題を課してその成果ということを行わない限り難しい。それでは、今のシステムから変わらないではないか。

 さすがに小学校から中学校くらいまでは学年がないと、かえって競争に拍車をかけることになりかねない。しかし、高等学校になったら、大学と同じように学年の概念をもっと希薄にしてもいいのではないだろうか。

 大学では単位を落としても落ちこぼれの烙印を押されることはないのに、高等学校で不可が付くことは相当の劣等感を生徒に与える。それは、進級にかかわることだからだ。人格形成に大変重要な高校生の時期に、追われるように試験勉強してあっという間に3年間が終わってしまうのではあまりにも酷だ。

 高校でも、学年の概念を大学並にし、現在の大学の共通科目のようなものを学べるようにするのが良いと思う。そうすれば、焦って定期試験の勉強に追われることもなく、また、問題を解くためだけの現在の学習よりはずっと質の高い教養を身につけることができるだろう。

 もちろんこれを実現するのには解決しなければいけない問題がたくさんある。大学入試制度を改善する必要があるだろうし、各校で教授内容を一から考え直さなければならないし、何といっても、まずは人々の意識が変わらなければならない。

 しかし、このような教育改革はある年度から突然変わるようなものではない。少しづつ変わっていき、最終的には全体が変わっていくというものである。だから、解決しなければならない問題は確かに多いが、いずれは前述のような教育システムが実現される可能性も十分考えられる。また、人々の意識が変わってゆけば、中学校でも大きな変化が起きるかもしれない。

 明治時代における初期の学校の成績評価や学年のシステムを見ると、一見現在とは全く異なっているだけにしか見えないが、現在の学校を改革するためのヒントがそこに隠されているのである。


戻る