情報学概論


 情報技術の開発を適切な方向に展開するために、人文系の学問はどのように活用されるべきか、テレビゲームを通じて考えてみたい。

 もともとテレビゲームは、ピンポンのように反射神経を要求される内容のものが始まりで、そこには感覚的な楽しさが存在するのみだった。ゲームを行っている間だけの楽しさであり、遊ぶ人間の意識に変化をもたらしたり、社会に影響を及ぼす可能性は考えられなかった。

 しかし、ゲーム市場の拡大により様々なタイプのゲームソフトが開発され、ゲームが物語の性質を持つようになると、「ゲームに感動する」というようなことも起こってくる。また、街角のゲームセンターでは、向かい合わせになったゲーム台で格闘ゲームの対戦を楽しむ若者が多くみられる。彼らの中の一部には、それは言葉を介さないコミュニケーションだと言うものもいる。

 以前は「趣味はテレビゲームです」などと言えば白い目で見られたものだが、今では特別不自然なことでもない。新聞の経済欄は新しいゲーム機の発表を大々的に取り上げ、高額納税者番付にはテレビゲーム関連の人物が並ぶ。ヴァーチャルリアリティー技術の最先端はゲームの世界である。

 もはや、テレビゲームは社会的存在でもある。

 以前は、テレビゲームにのめり込む子供たちを見てPTAが「外で遊ばなくなる」「目が悪くなる」「暴力的」などと単純な害悪論を叫んだものだが、今ではあまり聞かれなくなった。このような害悪論は新しい若者文化にはつきもので、漫画やロック音楽に対しても同じようにあったことだ。また、その害悪論が時間とともに自然消滅することも同じだった。

 では、テレビゲームに本当に害悪がないかといえば、そうではない。テレビゲームを高い頻度で利用する子供には、コミュニケーションに対する耐性が低く、その一方攻撃性が強いという調査結果もある(文献2)。

 もちろん、テレビゲームで遊ぶことが直接そのような心理傾向を生むとは考えにくい。テレビゲーム利用者は莫大な人数だが、そのうちのほとんどは特に偏った心理傾向を持つわけではない。

 問題なのは、特に攻撃的である子供がテレビゲームに影響を受けることだ。少し前に少年による凶悪犯罪が問題になったが、テレビゲームが直接の原因ではないにしろ、犯行のヒントになった可能性はある。その可能性を、テレビゲームをする子供を持つ親は十分認識すべきだ。もちろん、短絡的にテレビゲームを否定することとは別である。

 一方、テレビなどに出てくる「心理学の権威」的存在の者は、因果関係が明らかになっていないのに「テレビゲームの影響が強く考えられる」などと発言すべきではない。テレビゲーム害悪論を再び論じても問題解決にはならないことを念頭に置く必要がある。

 さて、テレビゲームは社会的存在だと述べた。10年ほど前、人気ロールプレイングゲームが発売されたときには、学校を休んでゲームを買いに行き、補導される子供が全国で何百人もいた。テレビゲームが「社会現象」と呼ばれた。また、ゲーム業界は「一兆円産業」などとも言われ、一部ではその急成長が経済学の研究対象ともなっている。

 しかし、テレビゲームを考えるときには、これまでの学問をそのままあてはめることができない部分が大きい。売り上げを単純比較して各ゲームメーカーの勢力の優劣を判断してみたり、ゲームソフトの内容よりもゲーム機の性能の話題が先行したりと、これまでの社会科学でものを見ているが、そう一筋縄ではいかないのがこの分野である。

 数年前のテレビゲーム業界のビジネス本を読むと、業界予測のようなものが事細かに書かれていることが多いが、そのほとんどは外れてしまっている。業界予測というもの自体はだいたい外れることが多いのでそれは問題にしないが、その予測の仕方があまりにも的外れなものであるのが問題である。

 『**社から発売される新ゲーム機ではソフトメーカーがハードメーカーに支払うロイヤリティがきわめて安いので、これまでのハードから多くのソフトメーカーが撤退しここに集まる。だからこのゲーム機では優秀なソフトがたくさん出るだろう。』

 『今回発売されるマシンのCPUは新しいタイプのものだが、実際の演算速度は**社の従来のマシンほうが速いので、まだ十分に太刀打ちできる。それを考えるとこの新しいマシンを買う必然性は感じられない。』

 このようなお粗末な分析を行うのは、たいてい経済の専門家である。そのような人たちの本をよく読んでみると感じるのは、経済の専門家はテレビゲーム業界に詳しいのは確かだが、実際にテレビゲームで遊んでいるとは思えないということだ。

 どうしてそう感じるかというと、テレビゲームの楽しさについて書かれている部分がとても少ないからだ。あったとしてもせいぜい「臨場感がある」などの、何のことやらよく分からない表現にとどまっている。結局、ゲーム内容は抜きにして、ビジネスの結果だけが論ぜられたり、社会現象となった「現象」だけが表面的に問題とされている。

 テレビゲームは単なる工業製品ではないし、これまでに一時的なブームを巻き起こした玩具とも違う。また、同じソフト産業であっても、パソコンのビジネスソフトの業界とも違う構造を持っている。

 テレビゲームを研究対象として取り扱うときに必ず考えなければならないのは、「なぜ売れるのか」ではなく「なぜ面白いのか」である。面白いから売れるのであり(もちろんその他多くの要因があるのだが)、面白いから社会現象とされるほどのムーブメントを引き起こすのだ。

 従来の経済学や社会学でとらえようとしても、面白さの探求がなければ、それは全く意味のない、表面的なものに終わるだろう。逆に、面白さの研究が十分になされれば、テレビゲームだけでも「新たな」社会学として成立する可能性も考えられる。

 テレビゲームがここまで社会において確立した存在になると、売り手の側も意識を改める必要がある。ゲームマニア向けの、確実に売れるシリーズ物ばかりを作っているのでは、目の前の利益は得られるかもしれないが、結局は市場を先細りにしてテレビゲームの世界そのものを消滅させることになりかねない。

 一般層をもターゲットにした、幅広く楽しまれるゲーム作りに、これまで以上に努める必要がある。また、それに一見矛盾するようだが、これまでより作家性の強い、先進的・実験的な作品も大いに認めてゆくべきである。歴史的にも認められる優れた文化というのは、その二つの側面を持ち合わせているものである。

 しかし現在のテレビゲームは、確実にある程度は売れるだろうという目標で作られているものが多い。一目見ると面白そうなのだが、実際に遊んでみると依然あったゲームの二番煎じであったり、画面の迫力だけが売り物でゲームとしては退屈なものがかなりの割合を占めているのだ。

 確実に売れるレベルを超えたゲームや、先進的なゲームというのは、作り手に高い能力が要求されるし、何より経営者の立場から考えればなるべく避けて通りたい道である。しかし、その道を通らなければゲームの楽しさの向上は得られないのである。

 目先の利益第一主義から脱却し、本当に質の高いものを提供する。長い目で見れば、そのことがテレビゲームの市場をさらに大きくすることになるのだ。テレビゲーム関連企業の経営者は、新たな経営哲学を身につける必要に迫られている。

 これまでテレビゲームについて考えてきたが、これらのことは、コンピュータネットワークなどの他の新しいメディアや、デジタルテレビ放送などの新しいエンターテインメントにも当てはまることではないだろうか。情報技術の開発はどの方向に進むべきか、そしてそのために人文系の学問はどのように活用されるべきか、テレビゲームという一つの娯楽文化から、その答えを垣間見ることができる。

参考文献
1. 稲増達夫(1997)「ゲームリテラシーの拡大と電脳遊戯の快楽」『電脳への提言』,アスキー出版局
2. 東京大学社会情報研究所(1997)「テレビゲームと心理傾向」『東京大学社会情報研究所研究叢書 日本人の情報行動1995』
3. 高橋健二(1991)『スーパーファミコン 任天堂の陰謀』,光文社
4. 市川公士(1993)『コンピューターゲーム ポスト「ファミコン」の覇者は誰か』,日本経済新聞社
5. 平林久和・赤尾晃一(1996)『ゲームの大學』,メディアファクトリー


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