ビジネス確立期

(初出:2000年02月17日、追記:2005年7月17日)

前項からの続き

本項参考ページ
http://www.twoteach.com/Bytes%20of%20History/bushnell.htm
http://www.emuunlim.com/doteaters/play1sta2.htm
http://www.emuunlim.com/doteaters/play3sta1.htm
http://www.emuunlim.com/doteaters/play3sta6.htm
http://www.videogamespot.com/features/universal/hov/p3_01.html
http://www.videogamespot.com/features/universal/hov/p5_01.html
http://www.gamespot.com/features/15most/html/mi_05.html

輝くドットの一つ一つに、
何百万ドルの富を夢見る男がいた。
彼はアメリカンドリームを実現するが、
市場は常に容赦ない審判を下す。


Atari社の設立、そして「Pong」

1960年代後半、ユタ大学でコンピュータグラフィックスを学ぶ学生の中のひとりに、ノーラン・ブッシュネル(Nolan Bushnell)がいた。近所の遊園地で働いて小遣いをかせぎ、チェスや囲碁といったゲームが大好きな彼は、もちろん「Spacewar!」の面白さにとりつかれないわけがなかった。彼もまた、多くの仲間と同じように、PDP-1の前でゲームに熱中した。

ブッシュネルはまさに奇才発明家らしい少年時代を過ごした。手作りの液体燃料ロケットエンジンをローラースケートに取り付けて、家のガレージを半焼させたこともあった。15歳のときに父親を亡くしたが、大胆にもブッシュネルは親の仕事を引き継いだ。少年のころから彼は商魂たくましかったようだ。

学生時代「Spacewar!」に魅了されたブッシュネルは、大学を卒業して就職するも、自らゲームマシン事業を始め独立する。1970年、初めて作ったゲームマシンが「Computer Space」である。これは、「Spacewar!」を元にしてできたゲームで、ふたつの宇宙船がミサイルを撃ちあう対戦ゲームという基本的内容は全く同じだった。このマシンはコインを入れるとゲームができるものであるが、これ以前にコンピュータゲームでお金を取ろうとする者はいなかった。つまり、この「Computer Space」が、世界初の商用コンピュータゲームということである。

13インチのテレビモニターを持つ「Computer Space」は、ナッティング・アソシエイツ社によって1500台が生産された。しかし、カフェやバーのようなところに集まる一般の人々が気軽に楽しむには、この「Computer Space」は複雑すぎたようである。コインを投入してゲームをプレイする人はほとんどいなかった。しかしブッシュネルはこの失敗で意気消沈するどころか、なぜ売れなかったかを考え、次のゲームマシンの開発にとりかかったのである。

ブッシュネルは、自分がナッティング社の幹部になって、次のゲームをヒットさせれば大儲けができると考えた。彼はナッティング社ナンバー3の役職を要求したが、既にゲームを売ることにあまり熱心でなくなっていたナ社はそれを拒否した。そこで、ブッシュネルは自らの会社を設立することにした。会社の名前は「Atari」。彼が最も好きなゲーム、日本の囲碁の用語である「当たり」を社名にしたのである。

1972年、Atari社初の製品が発売された。ゲームのタイトルは「Pong」であった。ブッシュネルは前作の反省を生かし、とにかく単純で、片手でも手軽に楽しめるゲームを作ることだけを考えた。ヒントは卓球だった。玉を相手に打ち返すだけの卓球を、コンピュータゲームにできないか。「Pong」では、画面の左右にそれぞれ短いバーが表示される。ダイアルを動かすと、このバーは上下に移動する。小さなボールが飛んでくるので、バーを動かしてボールを跳ね返し、相手側に送る。返し損ねてボールを後ろへやってしまったら負けである。(写真はこちらを参照されたい。)

ブッシュネルは、カリフォルニアはサニーヴェイルのとあるバーに、「Pong」を試験的に置いてもらうよう頼んだ。置いて数日経つと、マシンが故障したという連絡が入った。駆けつけてみると、コインケースが満杯になっていて、コインがつまってしまっていたのだった。

これはいけると確信したブッシュネルは、「Pong」の量産を始めた。そして、「Pong」は爆発的に売れていった。500ドルで作ったマシンが、1200ドルの価格で売れていった。当時、ピンボールマシンは2000台でヒットと言われていたが、「Pong」は年間8500台も売れた。500ドルの元手で始めたAtari社が、翌1973年には320万ドルを儲けていた。

「Pong」の大ヒットを見て、遊園地などの従来のアミューズメント産業は、二番煎じの亜流品を作った。「TV Ping Pong」とか「Paddle Ball」とか、内容は同じで名前を変えただけの製品が大量に出回った。そして、それらは日本にも輸入された。日本では通称「テレビテニス」などと呼ばれ、次第に日本でもコンピュータゲームというものが認知されるようになっていった。

アタリ・ショック

その後もAtari社は「ブロック崩し」としてよく知られる「Breakout」などをリリースし、アーケードゲームで成功しつづけた。しかし、あまりにも会社がもうかりすぎて、ブッシュネルにはそれが苦痛になり始めた。1976年、ブッシュネルはAtari社を2800万ドルでワーナー・コミュニケーションズ社に売却することを決めた。

1977年のクリスマス、Atari社は「Atari Video Computer System」通称「VCS」を発売して、家庭用ゲーム機の世界に参入した。これまでのアーケードゲームの豊富なソフトを持つAtariは、それが自分の家のテレビで遊べるようになったことを売り物にして、この「VCS」の販売に力を入れていった。(写真はこちらを参照されたい。)

ブッシュネルは、新たな事業に手を出すためにAtari社を去ることを決めた。また、彼の経営やり方がワーナー社の幹部たちと衝突したのも理由のひとつである。ベンチャー精神旺盛なブッシュネルと、大企業組織の中で出世してきた幹部たちとの話が合わないのは必然でもあった。一方「VCS」は、このマシン用のゲームソフトが他のゲームメーカーによっても作られるようになり、ヒット商品となっていた。特に1979年ごろからはVCS黄金期に入り、最終的にはこのマシンは1400万台も売れることとなった。Atari社最大のお化け商品だった。(Atari社のプロダクトの一覧はこちら

しかし、大きくなり過ぎたアタリ社の組織を嫌い、優秀なゲームプログラマーたちは次第に独立をはじめるようになった。特に、Activision社は本家Atariよりも面白いソフトを次々に発表した。またもう片方では、VCSブームに乗って一儲けしようと、これまでゲームなど作ったこともないような企業が、ゲームソフト作りを始めた。玉石混交の時代を迎え、ショップにはVCSとソフトが溢れていった。

VCSとそのソフトは、次第にその値段を下げていった。供給過剰に陥っていたのである。おまけに、ノウハウのない新規参入メーカーのつまらないソフトが次々とリリースされ、次第に人々はゲームに飽き始めていった。そして、VCS発売から5年が経った。1982年12月7日午後3時4分(東部標準時)、Atari社はVCSの売れ行きが予想に届かなかったことを発表した。この発表の直後からワーナー社の株価は大幅な下落を始め、たった1日で株価は32%を下げた。この年のクリスマス、VCSを買う者はもう誰もいなかった。このブーム崩壊現象を、「アタリ・ショック」(※)と呼ぶ。

※:アタリ・ショックについては下のサイトもぜひ参照してください
Classic 8-bit/16-bit Topics − 「アタリショック」の嘘と誤解
(2005年7月17日追記)

アメリカのコンピュータゲームビジネスは、「Pong」に始まり、VCSの市場崩壊で終わった。1983年以降しばらく、アメリカのゲーム産業は暗黒の時代を経験することとなる。

そのころ日本では、空前のコンピュータゲーム・ブームが巻き起こっていた。そして、アタリ・ショックを注意深く観察する企業が京都にあった。

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