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2001/01/29 Mon 晴 寒 「マジメにやりましょう」


毎週毎週毎週毎週、科目の存在自体忘れていた月曜の先生の授業ですが、今日は何とか覚えていたのでちゃんと出席。行ってみると教室にはかなり多くの学生がいて、この授業こんなに人気だったかと意外な印象を受けたのですが、どうも今日は課題の内容が発表されるからみんなきているだけのようでした。いえ私はそんな不純な動機で出席したのではありませんよ、ぜひ講義を受講したいと思って教室に足を運んだのです。ええ、今日課題が発表されるということさえ知りませんでしたので。

空き時間に空き教室で若干の昼寝などして、引き続き英語の講義を受講。「to the point 〜」で「〜になるくらい」のような意味か。〜に直面していると訳してしまいましたが、まだ実際に〜にはなっていないのか。などとここに書いておけば多少は記憶に残るかもしれませんな。

ヤマハライフサービス本社店に閉店時間6:30の数分前滑り込みで行って、夕飯の惣菜として唐揚げを半額で購入。早い時間で半額になるのはうれしいものの、まぁその分営業時間が短いということで、最後の時限まで授業があるときなどけっこう買い物に往生したりします。

帰ってきて、久々にテレビジョン放送を受信しながらの夕食であります。新大久保駅で酔っぱらいがホームから転落し、救出しようとして線路に降りた2名も一緒にハネられてしまい3名全員が死亡してしまった何とも痛い事故の報道がされています。ここ2〜3日ずっとですね。それで、葬式には森クンや国家公安委員長も参列し弔意を表明するとともに2人の勇気をたたえた、ということですが。

で、助けようとして死亡された2名のうち特に韓国人留学生のほうの報道が中心で、韓国から駆けつけた両親には勲章みたいなメダルや感謝状が贈られて、森クンも「将来日韓の架け橋となるはずだった彼が亡くなったのは誠に遺憾、日本の若者は彼の遺志をぜひ引き継いでほしい」というようなことを両親にお話しし、多くの人々が次々に弔問に訪れ勇気ある彼に哀悼の意を示し、生前開いていたホームページのBBSにも悼みの書き込みが殺到、両親は「彼の死を無駄にせずこれからも日韓友好を」うんぬん……という具合だったのですが。

何かウソくせぇ、何かウソくせぇ、何かウソくせぇ。この報道中の登場人物みんながみんな役割を演じているようでウソくせぇ。だって普通なら「クソ酔っぱらいテメーさえいなけりゃこんなことにはならなかったんだブッ殺すぞイヤお前も死んだか(藁」って、まずそう思うのが自然じゃないですか。いえ「イヤお前も死んだか(藁」は余計ですが、両親なんか本当に本当にただただ悔しい思いだけかもしれないのですよ。でも、とるものもとりあえず韓国から飛んできたと思ったらメダルに感謝状に森クンですよ。こりゃー泣くに泣けんわ。

いやまぁ「みんながみんな役割を演じている」というのは実際そうなのでしょうね。報道機関は報道機関でこの無惨な事件を報道しなきゃいけないし、警視庁は警視庁で感謝状贈らなきゃいけないし、森クンは森クンで弔問に訪れなきゃいけないし、両親は両親で「知るか! ほっといてくれ!」と言うわけにはいかないからみんなの弔意に応える声明を出さなきゃいけない。みんな、それしなかったら「何だけしからん」と言われてしまう立場なのですから。未だにスッキリしない微妙な日韓の関係という部分も当然あるでしょうし(ひょっとしてそれさえも「役割」?)。

ただ、我々事故に直接関係ない人間はそんな立場になく何の役割もないわけですから、「うーん勇気のある学生だ、エライ。お父さんもお母さんもしっかりした人だね」なんて、この「演じられた」報道そのまんまのことしか思わなかったら危険ですよね。みんな立場上の役割で動いているかもしれないとか、関係者の本当の気持ちとか、そういうこと考えずに「勇気ある2人の行動」なんて美談で「それではまた明日この時間このチャンネルでお会いしましょう」とキレイにまとめてはイカンと思うのですよ。……なんてことはヘビーなテレビ視聴者にとっては常識で、このようにいちいち考えてしまうのは普段テレビを見慣れていない人間特有の現実認識なのでしょうか。

でもテレビ以外でもありますよね、例えば太平洋戦争末期の沖縄戦の話になるとすぐ「ひめゆり」「挺身隊」なんて言葉が出てくる傾向にあるように感じるのですが、地元では戦争が終わった後もスパイが紛れ込んでいるとか強烈な疑心暗鬼が続き、隣人を殺してしまうなんて甘いもんで肉親や子供を殺してしまったりとか、それこそ想像を絶するなんてもんじゃない地獄があったそうですよ(私も直接現地の人に聞いたわけではないので伝聞形ですが)。で、そういう事実があることを吹っ飛ばしてひめゆり部隊とか、もちろん悲劇として取り扱われてはいるのですけれどもあくまで悲「劇」というか、美談のようになっている部分が少なからずあることについては「オイオイおかしいんじゃないの」といつも私は思っていて、今回の新大久保駅の事故についても似たようなところがあるのではないかと思ってしまったわけです。理屈というよりは感覚的なものなので、あまりはっきりとした言葉では表現できていませんが。


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